年末年始は温泉で

 年末年始を温泉で過ごす。なんとも贅沢で甘美な言葉だろう。
 冬の温泉ほどよいものはない。冷えた体を暖め、熱燗で雪見酒などは格別だ。なかでも、年末年始を温泉で過ごす。これは1年間、温泉をめぐってきたなかでも何かご褒美のような、そんな特別感がある。

 四万温泉「積善館」の予約ゲット

 例年、大晦日は自宅でテレビ番組の『ガキの使い 笑ってはいけない』などをつけて、お酒をちびちびやりながら年を越し、新年はこれも自宅で朝酒とおせちで過ごすのが常。年末年始を温泉でとなると、料金は高いし、客も多くて騒がしそうだし、風呂も混雑するだろうし、しかも宿の予約は取りづらそうなのでずっと倦厭にしていた…。
 そんなとある年の11月、たまたま見ていた四万温泉「積善館」のホームページに年末年始プランの空きがあったので、大晦日と元旦の二泊でポチッとしてしまった。本館併設の「壱番館」にある温泉床下暖房付きの簡素な部屋だが、これで元旦を温泉につかりながらのんびり迎えられそう。

 駅前食堂で年越し蕎麦

 年末年始は道路が混むので、電車で向かう。大晦日に上野から高崎まで新幹線で行き、吾妻線に乗り換えて中之条に到着する。時刻は昼時で、チェックインにはまだ早い。ふと見ると、駅前にお誂え向きの蕎麦屋があったので、すんなりと吸い込まれた。
「はやしや」は、テーブル4卓に小上がり席1つ、奥にも座敷があるようだが、こぢんまりしたいかにも郊外の駅前食堂な趣で、先客はいない。まずは、定番のビール大瓶、それにもつ煮込み。東京の酒場で出合う、もつ肉メインのものではなく野菜が入った田舎料理っぽい。
 やがて、同じく四万温泉へ向かうであろうお客がつぎつぎと来店して、一気に賑やかしさがます。大晦日のどこかせわしない空気が流れるなか、大晦日といえばこれの年越し蕎麦を注文する。手打ちということで、思いがけずにそこそこの蕎麦にありついた。

 まずは小手調べで共同湯

 四万温泉へは中之条駅から路線バスに乗る。ほぼ座席がうまったバスは約30分で終点の温泉街に到着。チェックイン前に、温泉街のなかを流れる四万川と新湯川の合流地点の川沿にある「河原の湯」へ入ることにした。周囲は大晦日の賑わいもあるなか、扉を開けると誰も入っていない。四万温泉には現在、ここを含め「御夢想の湯」「上之湯」と三箇所の無料(寸志)共同湯があるが、河原の湯が一番目立つ場所にあって入りやすい。ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉で、湯温は体感で42度強くらい。男女別の3人入れるくらいの湯船は石造りの壁に覆われていて、川の眺望はない。川沿いといえども閉鎖的な湯屋なので、あまり長居はせずに、あとは宿でゆっくりしよう。

 まさしく千と千尋の神隠し

「積善館」の外観は、アニメ映画『千と千尋の神隠し』のモチーフになったのごとく、まさしくその佇まい。欄干のある橋の上に「カオナシ」が立っていそう。
 積善館に初めて泊まったのは今から30年以上前の「山荘」泊。そのあと、「本館」にも泊まったが、今よりももっと素朴だったような記憶がある。ただ、その当時よりもいくらか整備されているとはいえ、この独特ないかにも古い温泉宿の味のある雰囲気は、昔のまま変わらない。
 積善館の客室は、最上層の「佳松亭」は客室もりっぱでその分お値段もはり、中層の「山荘」はそれよりもランクは下がるが、一般的な温泉宿クラス。表玄関のある「本館」は昔ながらの建物とあって、施設的にはおかまいなしな部類。本館横に併設されている「壱番館」は真新しく、アプローチにモダンなお休み処や足湯もできるなど、随分と今風の造りになっていて、部屋の床がフローリングというのもちょっと風情にはかける。本館の食事も、昔は質素でこそあったが部屋食でよかったが、今は本館の食事は食堂でのお弁当形式で、こちらもややそっけない。とはいいつつも、一泊1万円ほどなのでコストパフォーマンスを考えると、全然OKだ。ただ、今回は年末年始とあって割高ではあったけれど…。  

 三つのお風呂をはしご

 積善館のお風呂といえば、本館に「元禄の湯」、山荘に貸切専用の「山荘の湯」、佳松亭に「杜の湯」があり、これは30年前と変わらない。どの階層に泊まってもすべてのお風呂に入ることができる。本館泊の場合、昔は元禄の湯のみ入浴可だったので、ありがたい。泉質はナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉で、湯温はそれぞれで違う。露天風呂が併設の「杜の湯」は熱めで42度強。「山荘の湯」は貸切なので加水して調整ができ、大正ロマンな雰囲気の石造りの湯屋と湯船が今なを残る「元禄の湯」は、五つある湯船のうち、熱いところで体感42度くらい、ぬるいので40度くらいと、それぞれの湯船で微妙に湯温が違う。
 ひと通り温泉に入ったあとは、元禄の湯だけで十分だ。ぬる目のところを見つけてそこで沈没する。大晦日とあって客もそれなりにいるのだろうが、混んではいない。皆さん佳松亭のきれいなお風呂にいるのだろうか? 温泉好きなら元禄の湯一択だが、年末年始は普段温泉にそれほど行かない人も来るから、やはりきれいな湯屋で露天風呂にも入りたい人が多いのかも。元禄の湯は、思いのほかに誰もいない時間もあって、部屋(ビール)と元禄の湯を往復しているうちに、日もとっぷりと暮れていった。

 新年を温泉で迎える

 夕食は食堂で。本館と壱番館はリーズナブルな料金なのでそれなりの内容だが、老舗温泉旅館なりの工夫がされており、こちらは食事は酒のつまみなので、それにはこれで申し分はない。今宵のお供は日本酒で。
 そして、年またぎは元禄の湯で過ごす。除夜の音は聞こえてこなかったが、いつのまにか年を越したようだ。
 翌朝、年も明けて初風呂も元禄の湯で。朝食にお正月らしくおせちテイスト。それにお雑煮がつく。これで十分呑めそうだが、残念なことに朝にアルコールの提供はないとのこと。ならばと、部屋で持参したおせちをつまみに初呑み。お正月というわけではなくて、連泊の楽しみは朝呑み、温泉、昼呑み、温泉のリピート。連泊でも観光に出かける人は多いが、温泉宿での連泊のよさは宿でうだうだすることにつきる。
 酔い覚ましに外へ出てみると、温泉街をそぞろ歩きする人がちらほら。古き時代の温泉情緒が琴線にふれる積善館の外観は、観光客やほかの宿の宿泊客にも人気で、浴衣姿の人も混ざって記念写真を撮る人が後を絶たない。とくに日が暮れるとライトアップされて、ことのほか独特の雰囲気を醸し出す。まさしく『千と千尋の神隠し』の湯屋そのものだ。
 宿の人が言うには、今日は日帰り客でけっこう混むということだったが、思ったほどでもなく、昼から夕方にかけての元禄の湯は、昨日と同じく穏やかな時間が流れていった。
 二日目の夕食は、並んだ料理が一日目とまったくかぶることなく、今宵のお供はビールで。

 年末年始の温泉は?

 新年二日目の始まりは、朝風呂と今日もお雑煮つきの朝食。あとは、チェックアウトまで元禄の湯でのんびりして、帰宅。帰りは高崎から快速のグリーン車にした。上野駅周辺はいつもの慌ただしい喧騒はなく、どこか華やいだ空気が流れていて、日常に戻る温泉帰りの足取りも軽く思えた。
 初めての年末年始の温泉泊は、食事にお正月らしさはあったものの、特別に普段と変わった印象は少なかった。持参したおせちとテレビに映しだされる賑やかな番組が、幾分お正月の雰囲気を演出してくれたが、それ以外はいつもの温泉泊と同じ。テレビだって、温泉宿では普段は見ないので、お正月らしさを味わうためにつけたようなものだから。
 とどのつまり、いつだろうが温泉泊ってのはよいものだ。でも、温泉でお正月を過ごすのも、それはそれでよいものにちがいない。

(text & photo by shunji izawa)



はやしや


年越し蕎麦


河原の湯


積善館


壱番館の客室


杜の湯(公式ホームページより)


山荘の湯


元禄の湯(公式ホームページより)


大晦日の夕食

元旦の朝食


夜の積善館


持参したおせちセット